アラビクは大阪市北区中崎町にあるブック&ギャラリーカフェです。
http://www.arabiq.net/



【ちいさいけれど、確かな希望】DM画像
 改めて告知です。3月24日(木)から4月11日(月)まで、小さな人形を集めた展示をします。どういうわけかDMが業者からまだ届かず……画像をアップしておきましょう。
 表面はQeromalion鳴力さん。135ミリくらい。裏面、窓からのぞき見えるような作品は神原由利子さん。190ミリくらいとのことで、愛らしい松花堂弁当のような展示になるとおもいます。みんな来てね。




  ◆参加作家
 大山雅文、おぐらとうこ、海藤亜紀、かな、神原由利子、菊地拓史、雲母りほ、Qeromalion鳴力、小松ななえ、コリスミカ、てらおなみ、藤本晶子、芙蓉、堀結美子、よしだゆか
◆展示タイトル
ちいさいけれど、確かな希望
 
◆会  期 2016年3月24日(木)−4月11日(月)
 
◆会  場 2016年3月3日(木)−4月11日(月)
                  期間中水曜定休・13:30-21:00(日・祝-20:00)
                  珈琲舎・書肆アラビク/Luft 
                 〒530-0016 大阪市北区中崎3-2-14
                 Tel   06-7500-5519
                 Mail  cake☆qa3.so-net.ne.jp(☆→@)
DM画像など……三浦悦子『輪廻転生』刊行記念展開催中です!
 会期中にDMが完成したので、みなさまのお手元に届けられていませんが、三浦悦子作品集『輪廻転生』刊行記念展のDM画像をアップしておきます。三浦さんの作品の持つ清らかさを前面に出したい、とデザイナーに依頼。いいDMができたと思います。

 会場では人形だけでなく、三浦さんの作品にインスパイアされて制作された餓鬼道さんのCD2種(途中で追加がありました!)、写真集『聖餐』『フランケンシュタインの花嫁(展覧会特装版)』なども販売しています。みなさまぜひお運びくださいませ。

もっと知りたい「五代友厚」何を読めばいいのか(その3)
 以下の文章は、大阪保険医雑誌(大阪保険医協会)に連載している「進取の気性 ブームを牽引する関西の作家たち」を一部修正したものです。2013年時の原稿です。御笑覧ください。
また、現在発売中の『大阪春秋 平成28年新年号』には「五代友厚から『風立ちぬ』へ」として、五代が日本の幻想文学に与えた影響について本稿よりも詳細に記述しています。こちらはアラビク店頭で販売中。
 
 
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 2度にわたって五代友厚の評伝を読みました。時代小説・歴史小説はすでに起こった出来事を描くものなので、歴史上の人物をいかに魅力的に造形するかが作家の腕の見せ所です。吉川英治の宮本武蔵、あるいは司馬遼太郎の坂本竜馬。
余談をしたい。吉川英治の宮本武蔵像は、菊池寛と直木三十五の「宮本武蔵は武芸の名人であったか否か」という論争に端を発する。凡人説の直木に対して吉川は名人説で答えた。


 菊池は1888年、直木は1891年、吉川は1892年の生まれ。同世代といっていい。吉川が『宮本武蔵』の連載を開始したのは1935年。43歳だった。
 
 

彼らは何歳だったか
 
 五代友厚の話を続ける。1866年1月、坂本竜馬の仲介で薩長同盟が成立した。幕府を倒して公武合体を目指す薩摩、急進的な尊王攘夷を唱えた長州。本来相容れぬ同盟であったが、幕府による長州征伐や英米仏蘭4か国艦隊による下関の砲撃により疲弊していた長州、侍として自藩の主張を受け入れられない薩摩それぞれ、やむにやまれぬ状況にあった。


この仲介役として働いたのが土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎。薩摩が調達した船・武器を長州籍のものとし、坂本龍馬率いる亀山社中が運用する。船や武器に詳しい五代が長崎のグラバー商会を介して調達し、坂本龍馬がそれを運用したという構図である。
薩長同盟成立のその時、五代は欧州を視察中であった。年譜には2月に帰朝、とある。


 1866年時点での維新の偉人たちの年齢を確認しておこう。1834年生まれの五代が数えで31歳。龍馬は五代と同年生まれ。長州の高杉晋作(1839−1867)は27歳。木戸孝允こと桂小五郎(1833−1877)は33歳。伊藤博文(1841−1901)は25歳。薩摩の大久保利通(1830−1878)が36歳。西郷隆盛(1828−1877)は38歳。のちの元帥海軍大将・東郷平八郎(1848−1934)はまだ18歳。 戯作の神様・曲亭馬琴(1737−1848)が『南総里見八犬伝』を書き終えたのは1842年。少年期の五代や竜馬は馬琴と同時代にいた。
 


竜馬を有名にしたのは誰か

 さて、インターネットを介して坂本竜馬に関する記述を検索すると、奇妙な噂が目に付く。竜馬は司馬遼太郎が有名にした。それ以前は無名の人物であった、というものである。これは嘘。現代人にとってなじみ深い竜馬像が、司馬によるものであるとはいえようが、それ以前にも坂本竜馬は映画や小説の主役を張っている。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』連載がはじまる1962年の半世紀前、1911年から「坂本竜馬」あるいは「海援隊」とタイトルにある映画を検索するだけでもこれだけ見つかる(括弧内は制作年と竜馬を演じた俳優)。

『坂本竜馬』(1911、尾上松之助)、『坂本竜馬』(同、藤沢浅二郎)、『坂本竜馬』(1914、尾上松之助)、『坂本竜馬』(1921、嵐瑠徳)、『坂本竜馬』(1924、市川幡谷)、『竜馬暗殺 前後篇』(1927、明石緑郎)、『阪本竜馬』(同、高木新平)、『阪本竜馬』(1928、葉山純之輔)、『坂本竜馬』(同、阪東妻三郎)、『海援隊長 阪本竜馬』(1931、市川百々之助)、『海援隊長 阪本竜馬 京洛篇』(同、市川百々之助)、『阪本龍馬』(1932、葉山純之輔)、『海援隊快挙』(1933、月形龍之介)、『坂本竜馬』(1936、市川右太衛門)、『海援隊』(1939、月形龍之介)。


 15作もある。1939年から太平洋戦争をはさんだ1962年まで約20年のブランクがあるが、無名の人だったとは思われない。
 
竜馬を主役に据えた小説・評伝も以下の通りある。

『汗血千里の駒』(1888、坂崎紫瀾)は土佐出身の坂崎による新聞小説。薩長に牛耳られた政府への土佐藩をアピールすることを目的に書かされたとされる。1904年の日露戦争で竜馬はより有名になる。バルチック艦隊との決戦を前に、皇后陛下の夢に謎の人物があらわれ「日本海軍は絶対勝てます」と告げた。宮内大臣・田中光顕が皇后陛下に竜馬の写真を見せたところ、「この人物だ」とお答えになり、果たして東郷平八郎が大勝利を収めたことから竜馬が軍神として崇められた……冗談のような話だが、田中光顕も土佐出身。やはりこれも土佐藩復権のためのアピールだったのだろう。

 やはり土佐出身の内務官僚で、栃木・宮城・新潟・鹿児島の各県知事を歴任した千頭清臣(ちかみきよおみ)が1914年に『坂本竜馬』(博文館)を、少し時代が下るが1941年に作家の白柳秀湖が『坂本竜馬』を出している。
直木三十五『五代友厚』は1934年、織田作之助『五代友厚』は1942年の刊行だが、それぞれ竜馬の名前が見られる。竜馬が無名であるものか。


 
五代伝の竜馬
 
織田『五代友厚』では薩長同盟前夜、五代がヨーロッパに渡った場面までしか描かれていないので、本編に坂本竜馬は登場しない(巻末の年譜に「薩長連合成る。よって、坂本龍馬と謀り、長崎において長藩のために武器弾薬購入の便宜を与う」とある)。
直木『五代友厚』では安政4年(1857)に五代が長崎の伝習所へ蘭学を学びに留学した旨が書かれているが

「オランダ人の来たのが、安政四年二月(中略)外国に対するあらゆる知識の吸収につとめた。大隈重信もいたし、阪本(ママ)龍馬もいた(後略)(424-425頁)」


とある。
 ただし現在の研究ではこの時期の竜馬は江戸の土佐藩邸に寄宿し、北辰一刀流の修行をしていたとあるから、この直木の記述は信をおけないようにも思われる。逆に言うと無理にでも龍馬の名前を出そうとしたのかもしれない。


 阿部牧郎『大阪をつくった男』では二つの場面で竜馬が登場する。440頁の本の中で4頁ほどの記述。薩長連合の報をパリにいた五代が聞く場面(225頁)と、海援隊のいろは丸と紀州藩の船が衝突した事件につき、世論を引き寄せるために「船を沈めたその償いは 金をとらずに国をとる」という流行歌を竜馬がつくり、紀州に賠償金を支払わせる場面である(252−253頁)。

「いろは丸」とその武器弾薬のすべてを調達したのはもちろん五代。阿部作品では、流行歌で世論を味方につける竜馬に、五代が自分に不足しているものを見て取る場面が描かれる。ここで竜馬が五代にイギリス議会のことを質問するシーンがある。
せんに挙げた数々の映画からもわかるように、1910年代、大正デモクラシーの時期に竜馬ブームがあった。竜馬の起草した船中八策が支持されたのだ。船中八策は土佐藩主・山内容堂に大政奉還論を進言するにあたり、上洛中の船にあった竜馬が起草した新国家への提言である。
ここでは八策すべてを引用しないが、大正デモクラシーで評価されたのは第二項。
 

上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。

 
上下両院を設け、議会政治を行うことを提言したのである。上下院、というのはイギリスの議会政治をモデルにしたのだろうから、竜馬に五代の影響があったというのは阿部の想像と退けるには勿体ない考え方ではないか。
 
 
(参考文献)
・ 『直木三十五全集』第6巻(改造社、1934)
・ 織田作之助『五代友厚』(日新社、1942)
・ 阿部牧郎『大阪をつくった男』(文藝春秋、1998)
・ 五代友厚75周年追悼記念刊行会編『五代友厚秘史』(1960)
 

 
もっと知りたい「五代友厚」何を読めばいいのか(その2)
以下の文章は、大阪保険医雑誌(大阪保険医協会)に連載している「進取の気性 ブームを牽引する関西の作家たち」を一部修正したものです。2013年時の原稿です。朝ドラ「あさが来た」では「ええもん」の大隈重信が五代にとっては「わるもん」となっています。
また、現在発売中の『大阪春秋 平成28年新年号』には「五代友厚から『風立ちぬ』へ」として、五代が日本の幻想文学に与えた影響について記述しています。こちらはアラビク店頭で販売中。
 


 
前回は大阪商工会議所と大阪証券取引所との2箇所に銅像が立つ五代友厚の現在にまで伝わる業績、また五代の評伝小説として書かれた織田作之助『五代友厚』が「島耕作」的ご都合主義の上中途半端に終わっていることを紹介しました。
 
では、どれを読めばいいのか?
 
織田が序文で批判している、直木三十五『五代友厚』(1934)のほうが、読み物として面白い。
前回と重複するが、五代を扱った主な小説・評伝をまとめておこう。
 
・ 直木三十五「五代友厚」『直木三十五全集』第6巻所収(改造社、1934)
・ 織田作之助『五代友厚』(日新社、1942)
・ 永松浅造「秘話 五代友厚」『五代友厚秘史』所収(1960)
・ 小寺正三『五代友厚』(1973、新人物往来社)
・ 宮本又次『五代友厚伝』(1980、有斐閣)
・ 真木洋三『五代友厚』(1986、文藝春秋)
・ 阿部牧郎『大阪をつくった男 五代友厚の生涯』(1998、文藝春秋)
・ 佐江衆一『士魂商才 五代友厚』(2004、新人物往来社)
・ 黒川十蔵『幕末を呑みこんだ男 小説五代友厚』(2013、産経新聞出版)


 


 宮本『五代友厚伝』は資料や図版を多く用いた、小説形式ではない評伝。それもそのはず、宮本は日本経済史の大家として経済学界では高名な学者。読む値打ちで言うと、資料的には宮本版、評伝として信頼に足るのは、五代の次女である五代藍子の存命中、没後75年の追悼本として出版された『五代友厚秘史』に収録された永松版。
小説としての面白さで阿部版に分がある。直木、織田版に関しては研究資料が少ないまま書かれている。小寺版は永松版と記述やエピソードがかぶる部分が多い。真木、佐江は大阪篇が短く、われわれ大阪人としては物足りない。前回の原稿執筆中に出版された黒川版は文章が生硬で、小説としての出来が物足りない。

ともあれ、こうしてみると10年に一冊のペースで五代が小説化されている。それなりのリスペクトが払われていると見ていいのだろう。
 

明治14年の政変から
 
薩摩藩士に生まれ、生麦事件やそれに端を発する薩英戦争の収束に尽力し、維新を経済的に支えた功労者である五代はその後、大阪で民に下り、様々な事業を開始する。
落とし穴もあった。北海道開拓使の事業を38万円という格安で(投資額が1200万、時価3000万と言われた)譲り受けようと、薩長の両藩の政治家たちに根回しをしたところ、この藩閥政治を切り崩そうとした佐賀藩出身の大隈重信が天皇陛下に反対意見を奏上し、払下げ取り消しの憂き目にあう。余談を書いておくと大隈は早稲田大学の創立者だが、この時、政商五代ケシカラン、という世論を新聞や演説会で盛んに流布したのは福沢諭吉門下の慶應義塾出身者であった。記録によると明治14年(1881年)。五代友厚は46歳であった。
もっとも、大隈もまた、西南戦争などで政府が購入した船舶を三菱に無償で払い下げしていた痛い腹を探られる。因果応報、イギリス式の立憲君主制を推した大隈派に対し、ドイツ式の君権国家を推す伊藤博文はじめとした薩長派の逆襲にあい、大隈も政府を追われることになる。
 
五代はこの後も精力的に動き、大阪商船会社(現在の商船三井)や大阪堺鉄道(現在の南海電鉄)を立ち上げるが、糖尿病により1885年、50歳の若さで没する。墓所は大阪市営南霊園、阿倍野墓地。会葬者住友吉左衛門他四千三百余人、十三町余の列をなす。
 

直木三十五『五代友厚』
 
さて、五代へのリスペクトの度合いが最も強いのが直木版である。読みはじめてすぐ、声をあげて笑ってしまった。序文が延々と続くのである。序文は序文、本題に入る前に書かれるものであるが、五代の幼少期から勤王倒幕の社会背景を序の1から序の4に至るまで書き、いよいよ青年・五代才助の活躍がはじまるかと思いきや、五代友厚の伝記がろくに執筆されていないことへの嘆きが序の7まで書き連ねられる。少し引用してみよう。「友厚会」という会の名で編集された「五代友厚傳」が上巻のみ刊行され、下巻が出ていないことに対しての嘆き節である。
 
 わたしは、昨日で、序を終え、今日から、この伝記に入るつもりであった。だが、私は、大阪の人々、就中、実業家に対して、一言しておきたい事のある事に気がついた。(中略)友厚会というからには、相当の実業家が集まっていたにちがいない。もし集まっていなかったなら、大阪の実業家なる代物は五代友厚の事績すら知らぬ、馬鹿野郎である。その人々が、それだけの金さえ出さなかったという事は、一体なんであるか?私利我欲のほかに、眼中何物もない、大阪商人、贅六の下卑野郎、馬鹿、畜生、あんぽんたん、と言われたって、上げ得られる面があるか?

 『直木三十五全集 第6巻』411-412頁より。引用者により常用漢字と現代仮名遣いに改めた。) 

「一言しておきたい事のある事」という悪文を書くくらいの興奮ぶりがみてとれるが、関西弁で声に出して読むと、テンポがいい。原稿用紙換算してざっと700枚。オダサク版の倍の分量であるが、熱のこもった序文もわかるように、五代を顕彰する事を第一義に書かれたこの評伝は、五代の業績を賞賛をまじえて書き上げたもので、五代の負の側面を意図して書かずに置いたようである。それもまた意気。
 

 阿部牧郎『大阪をつくった男-五代友厚の生涯』
 
阿部牧郎(1933-)は、68年にデビュー、その後なんと7回もの直木賞落選が続いたあと、官能小説で一家をなした。そして最後の落選から17年のブランクを経て、1987年に直木賞を受賞した作家である。これだけでも作家に対する興味もわくというものです。
阿部版は明治維新の経済面での立役者であった五代の偉業を書きつつ、人間臭さにも筆を割いている。色好みであった。このあたりは先にあげた永松浅造も遠慮なく書いているので、事実だったのだろう。自邸敷地内に妾宅を建て、また没した友人の妾を引き取ってその邸も同じ敷地内に建てたという。
精力的な仕事を終えたあと———ここでは大阪証券取引所の設立を記念した花火が打ち上げられるシーン———ふと、こういう描写がさしはさまれる。
 
 河風が船の上を通り過ぎる。花火がさとの顔を赤や青に照らし出した。
 屋形のかがり火を消して友厚はさとを抱き寄せる。着物をぬがせて、さとの裸身が花火に染まるさまを眺めて楽しんだ。
(『大阪をつくった男 五代友厚の生涯』423頁)
 
さとは22歳の女中。濡れ場ついでに書いておくと、永松浅造「秘話 五代友厚」では、今に残る松島新地を居留地の外国人向けに整備したのもまた、五代によるものとされている。
ところで、すでに起こった出来事を描く時代小説・歴史小説は、登場人物をどれだけ魅力的な人物として、意外性を含ませながら造形するかが作家の腕のみせどころだ。
有名な歴史上の人物の無名の時代が書かれることもしばしばで、例えば五代友厚を主人公に据えた小説においても、年若い東郷平八郎や、坂本龍馬が脇役として登場する。


(その3へ続く)


(参考文献)
・『直木三十五全集』第6巻(改造社、1934)
・ 織田作之助『五代友厚』(日新社、1942)
・ 阿部牧郎『大阪をつくった男』(文藝春秋、1998)
・ 五代友厚75周年追悼記念刊行会編『五代友厚秘史』(1960)

 
もっと知りたい「五代友厚」何を読めばいいのか(その1)
 以下の文章は「大阪保険医雑誌」(大阪保険医協会)に連載している「進取の気性 ブームを牽引する関西の作家たち」を一部修正したものです。2013年時の原稿です。御笑覧ください。
 また、現在発売中の『大阪春秋 平成28年新年号』には「五代友厚から『風立ちぬ』へ」として、五代が日本の幻想文学に与えた影響について本稿よりも詳細に記述しています。こちらは大きな書店やアラビク店頭で販売中。できれば買ってくださいまし。
 
 
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 大阪の街を散策する際、橋やビルといったランドマークの由来書や、石碑にできるだけ目を通すようにしている。難波橋(ライオン橋といったほうが大阪の人には馴染みがあるだろう)の南詰め、北浜の大阪証券取引所(現大阪取引所)の前に堂々と立つ銅像、あれが五代友厚。本町駅付近の大阪商工会議所前に3体並んだ銅像のうち1体も五代友厚である。フロックコートという正装に身を包んでいるが、右足と、手のひらを上に向けた右手を前に出したやや不自然なポーズ。これは示現流の使い手が、いつでも抜刀できるという姿勢なのだという。興味がわいたので調べたところ、五代友厚をモデルにした評伝小説が主要なところで8冊ある。◎をつけたものが薦められる。
 
  • 直木三十五『五代友厚』(1934,改造社)◎
  • 織田作之助(1942,日進社)◎
  • 永松浅造「秘話五代友厚」(1960,『五代友厚秘史』所収,五代友厚七十五周年追悼記念刊行会)◎
  • 小寺正三『五代友厚』(1973,新人物往来社)
  • 宮本又次『五代友厚伝』(1981,有斐閣)
  • 真木洋三『五代友厚』(1986,文藝春秋)
  • 阿部牧郎『大阪をつくった男―五代友厚の生涯』(1998,文藝春秋)◎
  • 佐江衆一『士魂商才 五代友厚』(2004、新人物往来社)
  • 黒川十蔵『幕末を呑み込んだ男 小説・五代友厚』(2013,産経新聞出版)  
 
8冊の執筆者のうち、3冊はこの連載で取り上げたことのある直木三十五(1893−1934)、織田作之助(1913−1947)、阿部牧郎(1933)によるものである。読み比べると意外な面白さがあった。以下、五代の生涯に沿いながら、それぞれの小説についても触れていく。
             
 
薩摩藩士・五代才助
 五代友厚(1836−1885)と、西暦表記で生没年をあらわすとピンとこないが、天保6年から明治18年まで、50年を生きた。薩摩藩士の次男として生まれた。幼名は徳助。徳助14歳、父親が琉球より持ち帰った世界地図を筆写し、藩主島津斉興(なりおき)に献上する。才気あふれる徳助に、斉興の世子・名君で知られる斉彬(なりあきら)が与えた名前が才助。この名を長く名乗る。
 世界地図を見て育った才助は20歳のころ、長崎海軍伝習所に派遣され、オランダ人から航海術を学ぶ。伝習所には16歳年上の幕臣、勝海舟がいた。
 1854年にはペリーが黒船で来航しており、尊王論や攘夷論をめぐって幕府と各藩とでさまざまな対立があったが、1859年、才助は幕府の船に水夫として潜り込み、上海に渡り、汽船を購入する契約をまとめる。藩きっての船舶通、海外通となるが、1863年、生麦事件を発端とする薩英戦争で船ごと拿捕され、松木洪庵(寺島宗則)とふたり、捕虜となる。
 腹も切らずに捕虜となった不名誉と、イギリス艦隊に砲台の位置を教えたのではないか、という疑いをかけられたことで、英国艦からの解放後も武蔵国(埼玉県)で潜伏生活を強いられることになる。潜伏期間については小説によって過ごし方が違う。記録されない空白に小説家は想像力を羽ばたかせる。
 
 阿部版では人の目を避けて囲碁に熱中する姿が描かれる。直木版、織田版では裕福な農家に匿われ、地元の若者たちに私塾のようなものを開いたとなっている。直木版では、この農村で出会った美しい娘との淡いロマンスが描かれてもいる。
 史実として、ここで重要なのは、身を寄せた農家の息子、吉田二郎(次郎)少年との出会いである。のち五代の薦めで外交官となり、イギリス総領事になる。この吉田二郎から、意外な発展がある。吉田の娘は歌人の片山廣子。翻訳者・松村みね子としても知られる。ロード・ダンセイニやフィオナ・マクラウドなど、幻想文学の愛好家であればあっと声をあげる偉大な文学者なのである。室生犀星、萩原朔太郎、芥川龍之介の思い人であったともされる。五代に不遇の時期がなければ、ケルト文学の偉大な翻訳者である松村みね子もいなかった。歴史を紐解くと意外な発見があるものだ。
 
 話を戻す。藩に復帰後、才助自身の提案により藩の若者たちとともに英国に留学したのが1865年。織田作之助版ではなんとイギリスに到着したこの場面で小説が終わってしまう。後編の構想はあったようだが、序文で先行作品である直木版をいい加減な内容だ、と批判している割にオダサクも中途半端なものを世に残したものである。
 オダサクが批判した直木版には種本がある。死後五代友厚とゆかりのあった者たちが編纂した『友厚会編 五代友厚伝』で、これは偉人としての五代の記録を残す、という性格からか、意図的に書かれていない部分や史実と異なることが多い、とされている。現在は五代宛の膨大な書簡が大阪商工会議所に保管されているので、検証もしやすいようだ。
 
 もっともオダサク版は中途半端に終わっている上、直木版とそう変わった内容があるとも見えない。唯一にして最大の小説的な工夫は、長崎の伝習所時代に馴染みとなった、お露なる芸者を設定した点である。このお露が偶然にも、のち、薩英戦争の戦略を練るイギリス人の妾となっており、その危機を五代に知らせる役回りをする。最終章、ロンドンに渡った五代の目の端にお露そっくりの女が映るのであった。ふたりはさて、これからどうなるのか……「島耕作」シリーズのようなご都合主義で笑ってしまう。後編があれば読んでみたい。
 
 
明治維新の立役者として
 
 再び話を戻す。イギリスから帰朝後、1866年に五代は御小納戸奉行格を拝命する。藩の会計責任者と考えてよい。長崎に日本初となる船渠(ドック)を作る。1868年、朝廷を奉じる薩長連合と幕府軍とが戊辰戦争をはじめると、同藩の西郷隆盛や大久保利通とともに倒幕に力を尽くす。有名な海援隊の船や武器をはじめとした物資は、薩摩藩の資金を使った五代が手配したもので、これを長州に貸し渡す。それに実際に乗り込んで運用したのが、土佐藩を脱藩した坂本竜馬らであった。物資の調達もとは長崎時代より懇意にしていたスコットランド商人グラバー。長崎に現在も邸宅が残る。
 
 維新後、大阪に外国官権判事、大阪府権判事として着任。「権」は代理という意味なので、外務省局長代理、大阪府副知事くらいの地位だろうか。疲弊した大阪経済のただなかに立った五代は辣腕をふるう。大久保利通からの大蔵卿(大蔵大臣)の誘いなども断り、大阪で成した業績を列挙してみよう。
 
造幣寮を誘致。造幣局はいまだ大阪が本局で東京が支局。
日本初の英和辞典の出版(大阪に出版社を作らせ、そこから刊行させた)。
金銀分析所を創設(悪質な貨幣を鋳つぶして地金にし、造幣局に納めた)。
鉱山業を興す(国内の粗悪な貨幣がなくなることを見通し、鉱山を開発した)。
紡績工場を堺に設置。
外貨獲得のため、輸出品として青藍業を開始。
大阪株式取引所(大阪証券取引所)設立。本格的な株式会社が必要と考えてのことであった。
大阪商法会議所(大阪商工会議所)設立。業界団体、利益団体が産業発展に必要と考えてのことであった。
大阪商業講習所設立。大阪市立天王寺商業高校、大阪市立大学の前身。
 
……きりがないので省略するが、このほか商社や運送会社、南海電鉄の前身である阪堺鉄道も五代の発案・尽力による。すべての事業が、経済発展という明確な意図によるのがわかる。
 
 
(参考文献)
『直木三十五全集』第6巻(改造社、1934)
織田作之助『五代友厚』(日新社、1942)
阿部牧郎『大阪をつくった男』(文藝春秋、1998)
五代友厚75周年追悼記念刊行会編『五代友厚秘史』(1960)

(その2へ続く)
 
人形展「ちいさいけれど、確かな希望」について
 三浦悦子『輪廻転生』刊行記念展、おかげさまでご高評を賜っております。三浦さんの巧まざるユーモアが見られる展示になっているように思います。会期は4月11日(月)まで。

 さて、会期がかぶるのですが、3月24日(木)から4月11日(月)まで、小さな人形を集めた展示をします。旧暦だと4月9日が雛祭りだそうで、雛祭り月間です。30センチ未満の作品が並びます。

 現在確定している参加作家様はこちらの通り。 

大山雅文、おぐらとうこ、海藤亜紀、かな、神原由利子、菊地拓史、雲母りほ、
Qeromalion鳴力、小松ななえ、コリスミカ、てらおなみ、藤本晶子、芙蓉、堀結美子、よしだゆか

 (参加作家様、随時追記しております)

 
 作風、素材にバラエティがあり、たのしくかわいい展示になると思います。ぜひお運びくださいね。
◆展示タイトル
ちいさいけれど、確かな希望
 
◆会  期 2016324日(木)−411日(月)
 
◆会  場 2016年3月3日(木)−4月11日(月)
                  期間中水曜定休・13:30-21:00(日・祝-20:00)
                  珈琲舎・書肆アラビク/Luft 
                 〒530-0016 大阪市北区中崎3-2-14
                 Tel   06-7500-5519
                 Mail  cake☆qa3.so-net.ne.jp(☆→@)