以下の文章は、大阪保険医雑誌(大阪保険医協会)に連載している「進取の気性 ブームを牽引する関西の作家たち」を一部修正したものです。2013年時の原稿です。御笑覧ください。
また、現在発売中の『大阪春秋 平成28年新年号』には「五代友厚から『風立ちぬ』へ」として、五代が日本の幻想文学に与えた影響について本稿よりも詳細に記述しています。こちらはアラビク店頭で販売中。
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2度にわたって五代友厚の評伝を読みました。時代小説・歴史小説はすでに起こった出来事を描くものなので、歴史上の人物をいかに魅力的に造形するかが作家の腕の見せ所です。吉川英治の宮本武蔵、あるいは司馬遼太郎の坂本竜馬。
余談をしたい。吉川英治の宮本武蔵像は、菊池寛と直木三十五の「宮本武蔵は武芸の名人であったか否か」という論争に端を発する。凡人説の直木に対して吉川は名人説で答えた。
菊池は1888年、直木は1891年、吉川は1892年の生まれ。同世代といっていい。吉川が『宮本武蔵』の連載を開始したのは1935年。43歳だった。
彼らは何歳だったか
五代友厚の話を続ける。1866年1月、坂本竜馬の仲介で薩長同盟が成立した。幕府を倒して公武合体を目指す薩摩、急進的な尊王攘夷を唱えた長州。本来相容れぬ同盟であったが、幕府による長州征伐や英米仏蘭4か国艦隊による下関の砲撃により疲弊していた長州、侍として自藩の主張を受け入れられない薩摩それぞれ、やむにやまれぬ状況にあった。
この仲介役として働いたのが土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎。薩摩が調達した船・武器を長州籍のものとし、坂本龍馬率いる亀山社中が運用する。船や武器に詳しい五代が長崎のグラバー商会を介して調達し、坂本龍馬がそれを運用したという構図である。
薩長同盟成立のその時、五代は欧州を視察中であった。年譜には2月に帰朝、とある。
1866年時点での維新の偉人たちの年齢を確認しておこう。1834年生まれの五代が数えで31歳。龍馬は五代と同年生まれ。長州の高杉晋作(1839−1867)は27歳。木戸孝允こと桂小五郎(1833−1877)は33歳。伊藤博文(1841−1901)は25歳。薩摩の大久保利通(1830−1878)が36歳。西郷隆盛(1828−1877)は38歳。のちの元帥海軍大将・東郷平八郎(1848−1934)はまだ18歳。 戯作の神様・曲亭馬琴(1737−1848)が『南総里見八犬伝』を書き終えたのは1842年。少年期の五代や竜馬は馬琴と同時代にいた。
竜馬を有名にしたのは誰か
さて、インターネットを介して坂本竜馬に関する記述を検索すると、奇妙な噂が目に付く。竜馬は司馬遼太郎が有名にした。それ以前は無名の人物であった、というものである。これは嘘。現代人にとってなじみ深い竜馬像が、司馬によるものであるとはいえようが、それ以前にも坂本竜馬は映画や小説の主役を張っている。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』連載がはじまる1962年の半世紀前、1911年から「坂本竜馬」あるいは「海援隊」とタイトルにある映画を検索するだけでもこれだけ見つかる(括弧内は制作年と竜馬を演じた俳優)。
『坂本竜馬』(1911、尾上松之助)、『坂本竜馬』(同、藤沢浅二郎)、『坂本竜馬』(1914、尾上松之助)、『坂本竜馬』(1921、嵐瑠徳)、『坂本竜馬』(1924、市川幡谷)、『竜馬暗殺 前後篇』(1927、明石緑郎)、『阪本竜馬』(同、高木新平)、『阪本竜馬』(1928、葉山純之輔)、『坂本竜馬』(同、阪東妻三郎)、『海援隊長 阪本竜馬』(1931、市川百々之助)、『海援隊長 阪本竜馬 京洛篇』(同、市川百々之助)、『阪本龍馬』(1932、葉山純之輔)、『海援隊快挙』(1933、月形龍之介)、『坂本竜馬』(1936、市川右太衛門)、『海援隊』(1939、月形龍之介)。
15作もある。1939年から太平洋戦争をはさんだ1962年まで約20年のブランクがあるが、無名の人だったとは思われない。
竜馬を主役に据えた小説・評伝も以下の通りある。
『汗血千里の駒』(1888、坂崎紫瀾)は土佐出身の坂崎による新聞小説。薩長に牛耳られた政府への土佐藩をアピールすることを目的に書かされたとされる。1904年の日露戦争で竜馬はより有名になる。バルチック艦隊との決戦を前に、皇后陛下の夢に謎の人物があらわれ「日本海軍は絶対勝てます」と告げた。宮内大臣・田中光顕が皇后陛下に竜馬の写真を見せたところ、「この人物だ」とお答えになり、果たして東郷平八郎が大勝利を収めたことから竜馬が軍神として崇められた……冗談のような話だが、田中光顕も土佐出身。やはりこれも土佐藩復権のためのアピールだったのだろう。
やはり土佐出身の内務官僚で、栃木・宮城・新潟・鹿児島の各県知事を歴任した千頭清臣(ちかみきよおみ)が1914年に『坂本竜馬』(博文館)を、少し時代が下るが1941年に作家の白柳秀湖が『坂本竜馬』を出している。
直木三十五『五代友厚』は1934年、織田作之助『五代友厚』は1942年の刊行だが、それぞれ竜馬の名前が見られる。竜馬が無名であるものか。
五代伝の竜馬
織田『五代友厚』では薩長同盟前夜、五代がヨーロッパに渡った場面までしか描かれていないので、本編に坂本竜馬は登場しない(巻末の年譜に「薩長連合成る。よって、坂本龍馬と謀り、長崎において長藩のために武器弾薬購入の便宜を与う」とある)。
直木『五代友厚』では安政4年(1857)に五代が長崎の伝習所へ蘭学を学びに留学した旨が書かれているが
「オランダ人の来たのが、安政四年二月(中略)外国に対するあらゆる知識の吸収につとめた。大隈重信もいたし、阪本(ママ)龍馬もいた(後略)(424-425頁)」
とある。
ただし現在の研究ではこの時期の竜馬は江戸の土佐藩邸に寄宿し、北辰一刀流の修行をしていたとあるから、この直木の記述は信をおけないようにも思われる。逆に言うと無理にでも龍馬の名前を出そうとしたのかもしれない。
阿部牧郎『大阪をつくった男』では二つの場面で竜馬が登場する。440頁の本の中で4頁ほどの記述。薩長連合の報をパリにいた五代が聞く場面(225頁)と、海援隊のいろは丸と紀州藩の船が衝突した事件につき、世論を引き寄せるために「船を沈めたその償いは 金をとらずに国をとる」という流行歌を竜馬がつくり、紀州に賠償金を支払わせる場面である(252−253頁)。
「いろは丸」とその武器弾薬のすべてを調達したのはもちろん五代。阿部作品では、流行歌で世論を味方につける竜馬に、五代が自分に不足しているものを見て取る場面が描かれる。ここで竜馬が五代にイギリス議会のことを質問するシーンがある。
せんに挙げた数々の映画からもわかるように、1910年代、大正デモクラシーの時期に竜馬ブームがあった。竜馬の起草した船中八策が支持されたのだ。船中八策は土佐藩主・山内容堂に大政奉還論を進言するにあたり、上洛中の船にあった竜馬が起草した新国家への提言である。
ここでは八策すべてを引用しないが、大正デモクラシーで評価されたのは第二項。
上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
上下両院を設け、議会政治を行うことを提言したのである。上下院、というのはイギリスの議会政治をモデルにしたのだろうから、竜馬に五代の影響があったというのは阿部の想像と退けるには勿体ない考え方ではないか。
(参考文献)
・ 『直木三十五全集』第6巻(改造社、1934)
・ 織田作之助『五代友厚』(日新社、1942)
・ 阿部牧郎『大阪をつくった男』(文藝春秋、1998)
・ 五代友厚75周年追悼記念刊行会編『五代友厚秘史』(1960)